馬場駿吉

馬場駿吉(美術評論、名古屋ボストン美術館 館長)

風景の再発見

 水野誠司・初美夫妻の写真作品に初めて出会ったのは、2011年、今はなきギャラリーAPA(名古屋)での個展。以来、本年(2014年)7月のぎゃらり壷中天における個展、そして今回のギャラリーノイボイでの展示に至るまで、機会あるごとに静謐なモノクロームの作品世界に立ち会って来た。その度に強く感じるのは、私たちの住む地球がひそやかに見せる啓示的な一瞬の表情 ―それをよく見届けて来たものだという驚きだ。

 これまでにも絵画や写真のテーマとなる<風景>とその作品については美学的あるいは美術史的な様々な観点からの論考があり、現代における風景画あるいは風景写真には表現上、遠近法的錯覚の強調、ナショナリズムや建築による修飾など、人為の介入があって、純粋な自然現象としての風景は写真を含む美術の世界に存在し得なくなったという考え方がある。そうした論考に納得させられるところも多いが、逆に様々な束縛をどのように振り払い、いかに曇りのない裸眼を撮影対象に向けるか、そして、それをどのようにして忠実に作品として定着させるのか、という原点回帰志向をめざめさせる機転ともなるのではないだろうか。

 水野夫妻の一連の風景写真作品シリーズには、深い奥行きの果てに樹林や丘陵がたたなわる森閑とした光景がひろがる。そこには幾何学的な構図によるおしつけがましい遠近法を用いずして、彼方に未だ見ぬ世界の存在を予知させてくれる確かな気配が漂う。遠景と近景との間にある湿度を帯びた靄あるいは霧状の大気。それによって生じる光量のグラディエーションが<遠近>という単なる物理的な距離感よりも<遥か、身近か>という個人的、心情的なニュアンスを帯びた距離感を生じることになるのだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチが模索した「空気遠近法」や、岡倉天心の「空気が描けないだろうか」という示唆的な言葉によって横山大観や菱田春草が生み出した「朦朧体」という技法などを再検証してみることも、現状における<風景>の再発見につながるのではないか― 水野夫妻の仕事を眺めつつ、そんなことをふと想い起こすことになった。

 誠司・初美という写真家夫妻の展覧会を個展を呼ぶのは、写真という表現にはユニットの総合力によって成り立つ作品も多々あるからにちがいない。それを正確に伝えるためには、このような公表のあり方があっても不思議ではあるまい。晩年、コーディノロジストと自らを名付けて壮大な建築的構造物を発表した荒川修作が伴侶マドリン・ギンズとの共同作業を明示した例もあるではないか。水野夫妻の写真作品は私の知る限りではモノクロームに徹している。それには様々な理由があるにちがいないが、現在の二人が共有する写真表現の純化指向には色彩の束を解かぬままの光と影の干満にすべての感性を注ぐことが最も重要なのだろう。これからも息をひそめて、誠司・初美ユニットのストイックな風景再発見の仕事に注目してゆきたい。

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